「判治郎 巴里日記1927年」について


日記の書き手、角野判治郎(かくの ばんじろう)は、1889年、神戸で生まれ、東京美術学校(現東京芸大)の洋画科を卒業後、東京の銀座と神戸の自宅にアトリエを開き、画業に専念した洋画家である。


昭和2年(1927年)2月に神戸港を出発し、インド洋経由の船旅で4月マルセイユに到着、パリ市モンパルナスにアパートとアトリエを持って4年間遊学し、昭和5年秋、シベリア経由で帰国した。ここに掲載する日記は渡仏の最初の年の5月から年末までのパリでの生活を記したものである。


判治郎の生家は、江戸時代に天領であった駒が林村(こまがばやし)の網元のひとつである。屋号は丸源で、質屋や帆布織り業を営む商家でもあった。判治郎が5歳のとき父が急逝したが、母のつねが帆布織り業で目覚ましい成功をおさめ、資産を形成した。長男源之助、次男判治郎、三男源三郎とも母の莫大な資産を譲り受け、労働を経験せずに生涯を過ごした。長兄の源之助は1929年に歯の敗血症で急死するまで、東京在住の不在地主として神戸の土地資産を管理し、次男の判治郎は東京と神戸にアトリエを開いて、洋画家として活動し、三男の源三郎は東京帝大法科卒業後、角野錦生(かくの きんせい)という名で邦楽家に転身し、尺八の作曲と演奏で活動した。


太平洋戦争が終わり、農地解放ですべての資産を失っても、判治郎は一枚の絵も売らなかった。自宅の電話の権利さえ売らねばならぬほど落魄した時期、息子の一人が判治郎の絵をアトリエから持ち出して画廊に売ったことがあるが、判治郎はすぐさまそれを買い戻した。日展無鑑査、神戸光風会会長というバリューを評価して判治郎に絵を売るよう誘いかける画廊も少なくなかったが、判治郎は生涯一枚の作品も売らなかった。


1953年の大晦日、判治郎は脳卒中で倒れた。神戸大学建築学科のデザイン講師の職を辞し、執念のリハビリに励んだ結果、一年後には、寝たきり状態を脱した。左の手と脚のマヒは去らず、歩行は杖をついて百メートルに五分もかかったが、三宮や大阪で開かれる大事な展覧会や会合にはたびたび出かけた。自宅のアトリエにこもっては、やや不自由な右手で絵筆を書き続け、見舞客や後輩たちに「病を治して、もう一度パリに行くのだ」と語り続けた。


1966年2月、死去。


以降、家人は判治郎のアトリエと作品を判治郎の生前の状態のまま維持してきたが、1992年、主要作品36点と関係資料を神戸市に寄贈した。余った作品は、希望する知人に分けた。

神戸市は、2年の期間と数千万円の修復費をかけて、震災の直前に作品の修復をし終え、神戸市立小磯記念美術館に収蔵している。


角野判治郎 (1889−1996)年譜 


明治22(1889) 7月9日 神戸市長田区駒ヶ林町2−47に生まれる。


明治44(1911) 東京美術学校西洋画科に入学。 


大正5 (1916) 東京美術学校西洋画科卒業。 


昭和2 (1927) 2月神戸港出港 渡欧の途につき 4月フランスに着 パリに移住

す。 サロン・ドートンヌ出品 欧州各地を巡遊。 


昭和5 (1930) 11月帰国。 


昭和6 (1931) 2月光風会会員 以後帝展、文展に出品。


昭和25(1950) 神戸大学工学部講師。 


昭和26(1951) 7月4日 朋光会を創設 会長として阪神地方の美術文化のため

につくす。


昭和28(1953) 12月29日神戸市須磨区離宮前町の自宅において脳溢血のため

倒れるも 療養。 画業再起に努む 


昭和41(1966) 2月26日 自宅において死去(77才)


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現存する判治郎夫婦の日記一覧


判治郎は、日記の人である。

「パリ日記1927年」以外に残っているのは

「銀座アトリエ寄せ書き日記 昭和9年」

「制作日記 昭和10年」

「戦中日記 昭和18年6月から昭和19年7月」

「戦中戦後日記 昭和19年12月から昭和20年12月」

「闘病晩年日記 昭和30年2月から昭和35年11月」


判治郎の妻、豊子も日記の人である。

「判治郎洋行時の豊子の日記」

「豊子日記 昭和9年から昭和15年」

判治郎、豊子とも他の年度のものもどこかに存在したのではないかと思われるが、現存していない。

判治郎の自筆のものでは、パリなどの旅先から家にあてた手紙類が残っている。


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判治郎は作品によって、サインのしるし方を使い分けている。

サインのスペリングには、B.KAKUNO と B.KAKOUNOの二種類がある。

展覧会への出品用の作品には、絵の端にはっきりとサインしているが、贈呈用に描いたと思われる小品の場合は、どこにもサインを入れていないことが多い。入れている場合でも、おもての絵の部分にはサインを入れず、キャンバスの裏にだけサインしている。こうしたサインの使い分けが判治郎自身のその作品への自信や愛着と関係があるのかどうか、よくわからない。