判治郎の船旅

・1927年(昭和2年)2月、日本郵船の白山丸で神戸を出発。
・門司、上海、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ運河、を経て、マルセイユに到着したのは3月末であった。
・船上から判治郎は、家族当てに盛んに絵葉書を出している。
・残っている絵葉書には消印のあるものとないものがある。消印の無いものは、まとめて封筒にいれて送ったか、とも考えられるが、読み手を意識した書き方になっていないものも多く、むしろ、自分の備忘か日記代わりに絵葉書を利用したようだ。
・スエズ運河からマルセイユに着くまでのものは散逸して現存していない。編者は幼少の頃自宅のアトリエで、スフィンクスの前でラクダに乗っているエジプト衣装の判治郎の写真を見た記憶があるが、これも散逸した。
・手元に残っているものを、できるだけ時系列に並べてみた。
・4月上旬にパリのホテルに入り、住まいを探し始めるまでの判治郎の旅の輪郭が、およそ浮かび上がってくる。
電子化にあたり、漢字や送り仮名、判治郎独特の表現や方言は、そのまま残した。

[日本郵船株式会社より留守宅へ送られたお知らせ]



[文面]
謹啓 角野判治郎殿御乗船ノ当社汽船
白山丸ハ昭和弐年三月三日新嘉坡着
致候間此段御通知申上候 拝具
昭和弐年三月五日
東京市麹町区永楽町一丁目一番地
日本郵船株式会社
船客切符発売所
電話牛込五三二〇番

[出発挨拶]

拝啓 今般渡欧出発の際は厳寒の折柄にも拘はらず態々御見送り下され御懇情の段厚 く御礼申上候 並に日本の地を離るゝに臨み御挨拶に併せ貴家の御清福を奉祈上候
敬具
昭和二年二月
白山丸にて 角野判治郎

[第一信](絵葉書の表題は Entrance Aierltam Temple とあるが、文面は神戸から博多の様子)
十七日正午出帆
和田岬を通ってから食堂へ行く。瀬戸内海の景色よし。小豆島、四国の山々を遠望。島々の間を通り、夕なぎの色又よし
夜は月美しく波静かなり。
十八日、うすくもり、朝門司着。九時五十五分の汽車にて博多行き。喜さんを電話で呼んで共々大宰府へ行く。梅の花見ごろ。帰りに博多見物。小坂君と博多駅にて会う。八時頃門司へ着き五人にて駅前に宿る。
十九日、うすくもり。朝九時半のランチで帰船。正午いよいよ出帆。こんどは只一人となる。夕方少し波あれど、たいしたこともなく至って元気だ。いよいよ日本の地を離る。

[第一信2](シンガポールの絵葉書だが、文面からは上海寄港時の様子のよう)
二十日、曇り後晴れ。黄海も過ぎ船になじむ。デッキゴルフもやる。夕食、同室の者(安部、大浦、中村儀)一松氏野々村氏と日本酒で祝杯をあぐ。メートルあがる。
二十一日、雨。朝上海着。ランチ来る。木村一司君来る。上陸。クーリーなどゾロゾロして何となく騒がし。郵船の東久世氏を訪ね江星*(一字不明)にて昼食後、自動車にて公園を見物す。南京路の考九章にて小ぎれを求む。夜九時頃より木村君と散歩す。かなり物騒だった。
二十二日、晴れ。朝寝ているうちに東久世氏来る。後、木村君と三人にて支那料理の御馳走になる。三時半のランチにて帰る前、写真をとる。六時半頃、木村君帰る。外人の乗船あり。

[第一信3]
二十三日、午前七時上海出帆。天気よし。ウーソンより揚子江に出づ。見渡すはるかに対岸見え、その大なること海にしか見えない。夕方、燈台のある島を見る。波静かなり。
二十四日、台湾海峡を通る。波静かなり。
二十五日、午後もや深く汽笛を吹きながら香港へ入る。夜八時半入港。香港の夜景見事なり。九時頃上陸。高楼の間を通り、支那日本の店を見て支那旅館に宿らんとせしも、話通ぜず止めて船に帰る。
二十六日、もや深し。朝七時半のランチにて上陸。二階電車にて町を見物。ピークに上る。もやにて見えず。海岸通りにて十五年ぶりに支那の留学生(アツシヨン)に会ふ。十一時のランチにて帰船。十二時出帆。もや深く、汽笛を吹きつつ進む。鐘をつき合図をする船もあり。


[絵葉書1] 香港の入港前に。支那のシャン船をモヤの中でよく見かけます。

[絵葉書3] 香港の二階電車は二階が上等の十銭で、下は三等の半額です。

ホンコン夜景

[絵葉書2]
 香港の夜景はとても美しい。海岸から山の上まで無数の光がしたの水にうつって、目がさめるようだ。


シンガポール

[第一信4]
二十七日、好天気、暑し。ぼつぼつ夏服に更える。夕食にアイスクリーム出る。報告板に東京は大変寒し、〇下六点、北陸大吹雪。別天地の感深し。
二十八日、いよいよ暑し。雨中の落日を見る。
三月一日、追々シンガポールの話出る。
二日、晴。船は段々シンガポールに近づく。二等客全部正午前、写真とる。夕方シンガポール遠望。七時頃着。すぐ上陸。東洋ホテルに宿る。夜のシンガポールを見物す。
三月三日、晴。朝食後自動車にて海岸や木の下をドライブす。昼食後、又自動車で水源地から植物園などのりまわす。色々の花盛り。池には睡蓮咲き美し。夕方風呂に入り、後、散歩。ステッキなど求む。十二時過、船へ帰る。暑くってやりきれぬ。



[角野とよ子(妻)宛 絵葉書 シンガポール消印三月四日]
三月三日の節句はシンガポールでした。船は門司を出て少しゆれたが、それ以降鏡の上を行って居る様だ。暑いので汗が出て困るが至って元気だ。四日出帆、五日の午前十時頃ペナンに着く筈だ。皆代わりないことと思っている。皆気をつける様。



[角野源三郎(弟)宛 絵葉書 シンガポール消印三月四日]
四日朝シンガポール出帆。五日午前十時ピナンに着く筈。すっかり船になれて家に居る様だ。海が鏡の様だし至って元気だ。スコール(急雨)の後は涼しくって気持ちがよい。では又。船中にて。



[角野つね子(長女8歳)宛 絵葉書 シンガポール消印三月四日]
シンガポールはバナナやパイナップルが生って居ます。又色々花が咲いて美しい。黒ンボーや支那人西洋人と色々な人種が住んで居ます。色々なくだものも沢山あって大変おいしい。皆なかよく勉強しなされ。三月三日。

[角野源一(長男7歳)宛 パイナップル畑の絵葉書 シンガポール消印三月四日、漢字にはすべてルビが振られている]
パイナップルの生えて居る所。シンガポールにはいろいろの人種がいる。

[第一信5]
三月四日、朝七時頃出帆。曇り時々スコールあり。
三月五日、十一時過ぎペナン着。暑し。一時過ぎサンパンにて上陸。自動車にて、蛇寺、極楽寺、植物園を見てサンパンにて船に帰る。蛇寺への道中、稲が実り、日本の秋の様な景色。気候は暑く真夏の様だ。午前六時ペナン出帆。インディアンのデッキパッセンジャー多し。
三月六日、スマトラを左にいよいよインド洋にかかる。
三月七日、少し波あり。インド人を写生す。
三月八日、正午前、阪神地方地震の報あり。被害不明にて大きさの程わからず心配なり。報告板には大阪付近工場にて死者十八名、負者二十五名。神戸にてはランチにて外人一名死。此外のことは不明。かなり大きかった様に思われる。

セイロン
[第二通信1]
コロンボへ着く前に阪神地方中心大地震の報無電にてあり。阪神地方関係者色々と話したが、何せ電報がカンタンにてどうする事も出来ず、コロンボに着いて聞きただす事にし、後電を待っていた。コロンボ着の日ロンドン経ルター電報には「阪神地方に大地震あり。京都二千、大阪五千の死傷者あり」とのこと。皆顔の色をかへて居る。日本からの電報はカンタンにて、大阪付近の工場ツブレ、二十五名死者ありと。


[無題、切手・宛先なしの絵葉書]
前略。阪神地方の地震の報にて一時心配して居た。大抵いし事だとは思ふが、はっきり知られぬので気になる。来田の家はどうもなかったか、第一にその事が思い至る。神戸の方も変わった事がないか電報を打とうと思ったが、大した事がないと思ふて止めにした。
船の方は波は静かなので至って元気だ。航海中は涼しいが港に着いているとかなり暑い。出帆してからかなりになると思うがまだ半ばに至らない。明日はコロンボに着いてキャンデー見物に行く筈だ。皆体を大事に気をつける様頼む。


[第二通信1]
三月九日、好天気、朝より阪神地方の地震の話で持ちきる。午前十一時前コロンボ着。パスポート調べ、十一時半上陸。すぐ自動車にてカンデーへ出発。カンデーには仏歯寺のある所。途中動物園にてコブラを見る。車中にてバナナを求め食ふ。植物園には熱帯性の種々の植物あり。自動車にて走ること七十二哩。四時過ぎカンデー着。日本の日光中禅寺湖辺りの如く涼しく心持よし。湖畔をドライブし仏歯寺(シャカの歯がある所にて有名)を見る。六時半頃より帰途につく。月夜のドライブ特によく、印度人の運転士のたくみなる

[第二通信2]
ドライブぶりには、はらはらする。山道を降り、車上よりはるかに連山を望み、又、土人の行列など見る。コロンボへ着いたのは終りのランチ(十時半)の数分前であった。
十日、曇り、九時のランチにて上陸。五円両替す。二三人でぶらつく。橋のあたりにて写生中、雨降る。ハシーム店(宝石店)で遊ぶ後、一時間自動車にてドライブ、町を見物す。地震につき国へ電報を打つ。十円と一ルピー。三時のランチにて帰船。六時頃出帆。十一時頃まで話す。
十一日、午前中、船中を案内してもらって船の航海につき説明さる。午後、昼寝。五時頃船中にて海水浴す。夜、月よし。

[つね子 宛]
インドのセイロン島の荷車です。牛の形も少し日本のとちがひます。

[半二 宛]
(文面なし)


[第二通信3]
三月十二日、晴。午前十時より救命器着用、ボート乗りの練習あり。午後昼ね。小野村氏(大阪の弁護士)の子供さん病気にて皆色々と気にかける。夜は甲板にて涼み話す。月光よし。
十三日、晴、風横より吹き涼し。午後昼寝。夜マアジャン遊び。
十四日、晴れ。前日の如く風強し。午後昼寝。夕食には、神戸出帆以来はじめての日本食あり。マグロのサシミ、玉子のおつゆ、キウリのすものに満腹。
十五日、晴。前日の如く風強く涼し。昼寝。アデンに愈愈近づく。明後日の朝到着予定。

[第二通信3]
地震は夜七時頃と聞いたので子供等が学校に行って居ないので安心していた。子供等の身体をよく気をつけて、源一はとくに気をつける様。神戸出帆後一ヶ月になる。随分長く思ふがあと十数日だ。その間にエジプトのピラミッドを見物出来ると思ふ。神戸の方へ手紙を出していないからよろしく言っておいてくれる様。
三月十五日午後書、コストラ辺を航海中の船中にて

マルセイユ



[角野豊子(妻) 宛 via Siberia]
其後変わりないか。こちらは日一日となれてきた。十五日から画室へうつる事になった。子供をよく気をつけて、うんとうまいものを食はして丈夫する様。まだ宿屋ずまいで落ち着かないが画室にうつれば大いに勉強しようと思ふて居る。一日おきに仏語の学校に通ふて居る。おばあさん等も皆たっしゃか。では又。四月九日。


[三四郎(三男) 宛 via Siberia](絵葉書はセイロンだが、パリ到着後シベリア経由で送ったものらしい)
サンシロウ ワ ヨク アソンデイマスカ。フランス ノ コドモワ トキドキ カアサンニ ヒキズラレテナキナガラ アルイテオリマス。カアサンノユウコトオ ヨクキイテ ハヤクオオキクナリナサイ。四月十日


[半二(次男) 宛 via Siberia] (絵葉書はセイロンだが、パリ到着後シベリア経由で送ったものらしい)
ハンジハ マイニチ ヨウチエンニ イッテイマスカ。オカアサンノユウコトオ ヨク キイテイマスカ。ゴチソウウオ タクサンタベテ ツヨクナリナサイ。

美術学校

[文面断片](パリに着いた後の様子だが、年月日不明)

は?してしまふ。一週間に一度はお湯に行ふと思ひ乍それが出来ず時によると一ヶ月に一度行きかねる時もある。お湯にはいってあかの出るのにこれでは一週間に一度是非と思うが時がたつとついぶしょうになる。
二三日前大阪の愛日女学校と小学校の校長さんの白山丸で同室だった大浦さんがやってきて久しぶりに話しましたら来年二月中頃かえるから是非須磨へたづねて行ってこちらの話をすると言って居た。源太も船で一寸見知って居るから源太にもそう言ふておいてもらいたい。

[角野源三郎(弟) 宛 via Siberia]
革命祭にセーヌ河畔でモターの競争を見て、今エッフェル塔の頂上に登っています。七月十四日。

パリ

[文面断片] 絵葉書風景はカフェ・ドーム。(日記本文と照らし合わせると、1927年11月、判治郎がサロンドートンヌ会員候補に選ばれたときの展覧会会場の様子らしい)

つきあたって右に向くとその横にかけてくれて居た。可成りいい場所だ。おまけに自分の絵の四方に小さな人物画がかかっているので自分の静物の画がわりにめだって見える。二人で話しながらシャンゼリゼを歩いた。秋のいい夕方だ。月が出て居る。カッフェで又話して僕は日本人クラブでウナギを食いに行く(中村君も行きたいのだが毛唐の婚約の何かに招かれて居るので別れて帰る)
四日は招待日で三時頃に行った。大変な人出だ。鶴見氏と出会った。

[文面断片] 絵葉書風景はカフェ・ドーム。前項2の続き

皆たっしゃかね。おばあさんは元気かね。神戸の方も変わりないかね。追々寒くなってきた。然し日本は今頃はいい天気が続いていい時候の頃だね。
この手紙が着いたら金を送ってもらいたい。正金へ言って巴里のクレディリオネ銀行Credit Lyonnais でとれる様にして送って欲しい。では又。皆様へよろしく。一昨日横山からアジツケノリ(浅草)を送ってもらった。会ったらよろしく言ってもらいたい。こちらからも礼状は出すが。