1920年代のパリ

この項でのパリやキキについての情報は「パリ1920年代、シュールレアリスムからアールデコまで」(渡辺淳。丸善ライブラリー)および「キキ、裸の回想」(クルーバー&マーティン著、北代美和子訳、白水社)から引用またはリライトしています。

白人女と黒人女(モデル:キキ 写真:マン・レイ)


判治郎の作品中に、「モンパルナスのキキ」と題された婦人画像が2点ある。

モンパルナスは、セーヌ左岸の町の名。判治郎はこの町にアパートを借りて住んだ。

キキとは、1920年代のパリで、モデルとして一斉を風靡した女性である。


■モンパルナスという町について。


パリの芸術家たちが集まる場所として今日の観光名所になっているモンマルトルは、19世紀の末、すでに芸術家たちは、逃げ出していた。バーやナイトクラブやキャバレーが幅をきかせはじめ、シャンパンには法外な値がつき、売春や軽犯罪にむすびつく町になったからである。


前列中央ダリ、 右端マンレイ


芸術家たちが移り住んだのが、セーヌ左岸のモンパルナスだった。
そこは基本的にブルジョワの住宅地で、ナイトライフや売春はなかった。アパートの中庭に芸術家用のアトリエを建てるのが流行した。
ルイ14世の時代からパリに住む芸術家たちを奨励するのはフランスの国家的な文化政策だった。政府はモンパルナスを特別に扱った。犯罪分子がモンパルナスに根をおろすことは決して許されず、一方で警察はわざと目立たずに居た。芸術家共同体は「フリーゾーン」と見なされ、パリの他の地域では許されないような奇抜な振る舞いもモンパルナスでは大目にみられた。
自由と実験とがモンパルナスのあらゆる面に浸透した。モンパルナスに来る者たちには、芸術的に、知的に、政治的に、性的に、自己を実現する自由があった。


■キキについて。



帽子をかぶったキキ(モデル:キキ 写真:マン・レイ)


キキは1901年10月シャティヨンに生まれた。父親が法的に認知しなかったために、母方の姓を名乗る。本名、アリス・エルネスティーヌ・プラン。
この時代、売春は地方出身で手に職の無い未婚の娘の多くに共通する運命で、女中やお針子、洗濯女などのちょっとした働き口を見つけた娘でさえ、支払われる賃金はあまりに低く、多くは生き延びるために副業で売春をした。
キキは、機知と賢さのおかげで売春とはかかわらずにすみ、その天衣無縫な性格からモンパルナスの芸術家社会に引き寄せられたことで、安全な住みかを手に入れた。
モンパルナスは個人の貴族社会であり、最高位についた個人がキキだった。自分ひとりで、自分自身のパーソナリティの力によって、キキは社会の底辺から、赤貧からのしあがり、最初はモンパルナスの芸術家共同体で、のちにはパリ全体で、誰より目立つ人物になった。同時代の女性では、一介のお針子からのしあがったココ・シャネルがいる。


貧しい芸術家たちのパトロン、ミシア・セール

当時のシャネルファッション


キキは二十歳になる前に、キスリング、フジタ、ペル・クローグ、アレクサンダー・カルダーなどのモデルを務めた。

レオナード・フジタ


判治郎の日記では、モデルたちがアトリエを訪ねてきて、その裸身美を画家に提供するさまが画家の日常として書き留められている。時にはモデルたちは、画家に料理を作ってやり、買い物や縫い物をしてやり、いっしょに酒をのみ、たまには食事にでかけ、病身の家族の心配をし、恋人の愚痴を話し、生理のときは機嫌が悪くなり、金がなくて困っていると窮状を訴えたりする。酔っ払って気が合えばキスをし、そして、愛人になる。
キキが生活臭のする甲斐甲斐しい振る舞いをしたかどうかはわからない。むしろ、キキの中にその生まれ持った創造性を見つけた感性の優れた芸術家たちによって、すべてを許容され、短期間の恋人兼用の職業モデルというより、芸術家たちの友達となることができたのであろう。

1921年から29年にかけての8年間にわたる写真家マン・レイとの恋愛は、モンパルナスでもっとも長く続き、もっとも話題になった関係だった。
キキはマン・レイに言う。「文句をいうことないじゃない。だって、わたしはラ・ロトンドのおねえちゃんたちのなかで一番の美人のひとり。おばかじゃないし、恋していてもうるさくしないし、ぜいたくじゃないし、愛人をかけもちするはずがなくて、<<梅毒もちじゃない>>女があなたのものなんだから」
「梅毒もちじゃない女」などという表現をみると我々はギョッとするが、これはキキ一流のユーモアで、「ちょっと奇跡的な存在」という意味なのである。モンパルナスの芸術家たちのあいだでウケそうないいまわしだ。

アングルのヴァイオリン(モデル:キキ 写真:マン・レイ)


二人は数え切れぬほどの回数、写真撮影を行い、ふたりの共同作業はシュルレアリスト写真の最高傑作を残した。写真家マン・レイはキキの多面的な美しさをとらえた。着衣のとき、その衣服にはキキの官能性が乗り移った。裸体のとき、キキはその肢体をためらいなく見せた。バストは完璧であり、キキはそれを知っていた。ヒップはゆったりと安定し、そのポーズが類型的だったり、露骨だったりすることはなかった。

キキはシュールレアリズムの実験的な映画だけでなく、商業的な映画にも多数出演している。また、ナイトクラブ<<ル・ジョッケー>>の呼び物スターでもあった。踊り、歌をうたった。

ムーランルージュで歌うシュバリエ。


ジョセフィン・ベーカー。史上はじめての黒人スターはパリのショウビジネスで生まれた。


キキの描く素朴な絵は評判が高かった。1927年、判治郎がパリに着いた年、キキの作品展が開かれた。パリ・トリビューン紙によれば、そのパーティは「モンパルナスの常連を大量動員。5時から真夜中過ぎまで人々はとぎれることなく流れとなって押し寄せ、狭い画廊は興奮した評であふれた。今年もっとも成功したオープニングパーティだった。笑いものにしようとやってきた人々が居残って絵を買い、キャンバスの大多数にはお開きになる前に<<売約済み>>のちいさな札が飾られた」
判治郎が描いた「モンパルナスのキキ」は、いずれも着衣で、うち1枚には1928年とある。このころキキは長年の恋人マン・レイと距離をおきはじめ、ジャーナリストで風刺漫画家のアンリ・ブロカと恋に落ちる。翌1929年、キキは、赤裸々な回想録を出版した。パリですごした青春、性的めざめとその罠の話である。
キキが回想録を出した年の晩秋、ニューヨークで世界恐慌がはじまった。
1920年代にパリで花咲いた本格的な消費文化・大衆社会の文芸や芸術の時代<<狂騒の時代:レ・ザンネ・フォル>>は終わりの時を迎えたのである。

不遇のうちに死んだモディリアニ


■芸術家たちが出入りしたカフェ


「ラ・クロズリー・デ・リラ」:ピカソ、ヘミングウェー、

「カフェ・ル・ドーム」:モディリアニ、シャゲール、マチス、ピカソ、フジタ、

「ラ・ロトンド」:ダリ、ユトリロ、ブラック、ラディゲ、ストラビンスキー

「ル・セクト」:ヘミングウェーほかアメリカ人芸術家

「ラ・クーポール」:プルースト、レマルクジェームズ・ジョイス、レイモン・ラディゲ、コクトー、サン・テグジュペリ、チボーデ、ジッド、