雑談の最近のブログ記事

一年以上の長期休暇でした

前回このブログの記事を書いてから1年以上たってしまいました。

近々目の手術をするので、また更新が意の如くならないかもしれませんが、続けられるところまで続けて見るつもりです。

演説会を無音でTV視聴

民主党の総裁選びの演説を、音声ミュートで、視聴しています。

顔の表情では、前原は緊張して今にも泣き出しそうで、馬渕はお辞儀の度が過ぎたし、海江田は少々乱した髪の毛なんて無意味な演出しかすることなく、野田はいつものようにウインクばかりしてた。鹿野は枯れ木も山でにぎやかし(>?)というほかなし。

8ヶ月ぶりの書込再開

、、、、、、そういうわけで、書込を開始します。

おけましておめでとう、というわけで、初詣を考えたのだが、毎年行くようなところではありきたりすぎて興が湧かないので、さいころを振って当たった神社仏閣に詣でようと考えた。

当たったのは、横浜の称名寺。住まいのある東京から40km。慣れない京浜急行に乗って、金沢八景で降りて駅員に尋ねたら、一つ前の金沢文庫が下車駅です、ここから歩くと30分かな、、というわけで、taxi乗り場に向かったところ、目にとまったのがちっちゃな瀬戸神社。そこで、初詣をすませ、おみくじは小吉をあてて、まずは慶賀。

tax乗り場からtaxiに乗るとワンメーターで称名寺についた。

由緒ある良い寺である。境内も広く、幼稚園児や障害者の遠足も受け入れている。この寺の重要文化財みたいな話はwebででも見てくれ。

ダルマおみくじは売り切れましたという張り紙を片目に、初詣をすませ、隣接する県立金沢文庫の展示を見学に立ち寄る。考えさせられる出来事に出くわしたのは、この博物館の受付でである。

 

入り口のフロアに、事務デスクを置いただけの、気安く感じの良い受付で、40にはまだなっていない落ち着いた感じだが自由業的身なりの男性が、バイト風の受付の二人の婦人の後ろで対応している小柄でハキハキした正職員風の女性に、お願いする風情で質問している。

「はああ、この来月のイベントの受付はインターネットでやってくれないのですか。」

「ええ、検討はしているのですが、インターネットで申し込みするのはインターネットできる若い人になってしまうので、当館のように過去の利用実績ではインターネットをやらない年配者が大多数のところでは、インターネット申し込みを優先することで、かえって、過去実績のある当館愛好者の皆様の利用のチャンスを制限してしまうことになり、それはその人たちのために公平を欠くことになる、という意見もありまして、インターネットで募集をするところには至っておりません」

 

この小柄な正職員風の女性の善意は疑うべくもないのだが、なんかこれはへんではないのか。

 

インターネットで募集をすると、インターネット・リテラシーのない人には不利益になる。

市民に対する公平平等を運営原則とすべき公的セクターでは、一部の人に不利益となるような運営は出来ない。

よって、インターネットでは公募しない。

 

さあ、酔狂にもこのページを見た人は、この3段論法の可否をお考えあそばせ。

 

 

「和文SV」 

今までなかった新しい職人技にして、職業。

 

SVとは、すーぱーばいざー。スーパーバイザー。

 

「こんな文章、日本語になってないじゃないか!!!

 

いかりさえ感じる文章にでくわすことがある。1冊5000円もする翻訳本を買って読んで、こなれていない違和感のある訳文に出くわすと、たった1行だけで、読んで損したという気分になる。

 

訳者は、

? 自動翻訳ソフトにかけて、荒訳(あらやく)をつくる

? これを、原文をつき合わせて、荒訳のバカ翻訳ソフトではどうにもならない箇所を適切にしながら、翻訳としてのいちおうの脱稿をする。

 

こうして出来た第0.9稿をうけとった出版社の、編集者は、

?自分で見て、わかりにくい・読みにくい箇所に「?」をつけて、訳者に突き返す。

?訳者は、指摘に目を通して修正することもあるが、オレの訳は正しいと、修正しないこともある。

 

こうして、両者の間で妥協が成り立った成果物が、あるいは、未熟ものの訳者だった場合は監訳とか監修とかの権威者を引っ張ってきて体裁を整えた擬似最終原稿が、「いつまで推敲してんだよ、バカヤロー。しめ切りがせまってんだよ。いい加減に間にあわせろ」という諸方面の圧力に後押しされて、(字義ちがいではあるが)いい加減なまま出版日=取次に納品する月次の締切日に間に合う形で、出版され、、、購入して本気で読んだ読み手に、「なんだよ・この和文!」反応を起こさせてしまう。

 

読者は、ホントに損したなぁとおもうのである。

誰も金返せとはいわない。訳者の文章の間違いや、意味不明の文章を、なんとか(こう書いてあるけど、それは訳者の未熟さのせいであって、ほんとはこの訳者もXXXXと書きたかったにちがいない、と)知的に補ったりもする。

が、読書しながらそのような補完をする余裕がなければ、「アホか、この本、この訳者」と断罪して終わりとなる。どんなに良い内容が詰まっていても、まさしく一巻の終わり。ごみばこか、BookOff行き、である。

これでは、原作があわれだ。原作の知恵100が、下手な和文になったおかげで、半値八掛け五割引きになってしまった。実際、下手な和文が、外国の良質な知性を欲している日本の知的需要の充足を阻害しているのである。

訳者の能力が低い、、ということではない。訳者はその外国語を、他の誰よりも正しく厳密に理解しているが、正しく理解したその理解の深さを厳密に表現しようとすればするほど、関係代名詞のこんがらがった難文となり、悲しくもその理解した内容を和文に移し変えることができないのである。これも「訳」の能力といえなくもないが、そこまで訳者に負担を負わせずとも、分業して、訳文の「形成」手術部分は、こなれた日本語をつくる技をもった専門職人にまかせればよい。

 

それが、「和文スーパーバイザー」だ。

 

この人は、自分で翻訳はしない。誰かが翻訳してつくった「和文」が、読むに耐えるものかどうか、日本語になっているかどうか、コンテキストにあわせて違和感のない日本語になっているか、とチェックするだけだ。

 

だから、原文が英語であろうと中国語、ロシア語、ヒンズー語、その他、火星語であっても、かまわない。「和文スーパーバイザー」は原文の外国語をしらなくていい。ひとえに、その和訳された「和文」を、点検する任務を担う存在だからである。

 

というわけで、和文スーパーバイザー、、なる新語・新職の提案、でした。

 

 

 

 

 

メモとして。

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清朝ラストエンペラー、愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、アイシンジェロ ォプイー)の人生を描く。ベルトルッチの映画ではなく、中国テレビの史劇。

あとで調べたこと:1967年10月17日、一人の中国人が腎臓癌から尿毒症を発症して亡。火葬され、以後彼は 『火龍』 と呼ばれる。火葬された皇帝は彼がただ一人。1931年、川島芳子 婉容を天津から脱出させる。

作品から:

龍旗、

スイカバンス(といいながら、自分のほっぺたをたたく)、

この監督は男女とも目の切れ上がった顔が好みのよう。

名前の下に府と書く。「親王府」。事務所という意味?

前途有望:チェントユボ、発音日本語との似てる。

じっくりしたカメラわーく。記録映画か、カメラマラしっぱなしの旅番組みたいに:えんえんと行列、紫金城内部の門、路地、建物、儀式の再現、北京秋天。姫様のヘアスタイル=スターウオーズのアミダラ姫のような牛の角のような。酒器。赤い糸で結んだオチョコで二人が酒をのむ結婚式、三々九度といえるか。

歴史に忠実なドラマを期待したが、史実というより、内面を描くので奇妙な感じ。

1980年代の作品か、天津の古いビルなど、いまでは見れない風景も多く、貴重。

1925、26年ごろの皇帝の街歩き、夜会場(ナイトクラブ)で、サントリのダルマ瓶のウイスキーやマリリンモンローが映った映画がでてくるのには苦笑。ひとつ辺なのがあると、他のシーンもすべて出鱈目に見えてくるから、史劇づくりはたいへんだね。

ロシアの将軍セミューノフに大金をだましとられる事件があるのに、川島芳子はなかった。

極悪非道の日本:英米やロシアポーランドがナチスの残虐を映画やドラマにして教育に使ったか?

満州後のロシア抑留、東京裁判、中国送還、10年の思想教育は、みたことない話で、そうかと思ったが、ダルマとモンローだからねぇ。

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青年期を演じた、陳道明は好きな俳優だ。彼は、康煕帝も演じたから、清朝の、はじめと終わりを演じたことになる。

 

 

 

風呂で読むことができる本を、出版社は作ってもらいたい。

 

紙屋も、水にぬれても破れない用紙を、ちゃんとつくれ。

 

風呂で読める本なら、格付けAAAを無条件で与えようと思ったが、そんな本にはお目にかかったことがない。(いや、じつはある。大昔も大昔、大手印刷カイシャのエライ人から、新しくプラスチック製の紙ができた・どんな色でも精密な図でも印刷できる・折り曲げることはできないが・巻物のように丸めることはできる・この紙を開発した人たちのためになにか用途開発したい・知恵貸せよ、といわれて、その特殊な紙を見せてもらったことがある。しばらくして、名刺や特殊なカタログで使われているのを時々みるようになったが、本ではなかった。)

 

特に、講談社は、しっかりしてもらいたい。

理由を言うと、

 

私はたぶん、講談社学術文庫の、日本最大の購入者だろうと思う、公費で買う図書館を除けば。

この文庫は、もちろん、ろくなシリーズではないが、(岩波と藤原と羊土を除く)それよりもっとろくな本しか出さない本屋に比べればましだが、紙は、「まし」とは言えない。

 

たとえば、この文庫の1947番の「御堂関白記 上」の第1ページを、21時30分に開きつつ、サンタマリアのアロマオイルを溜めた風呂に持ち込んで入浴すると、22時15分には、長保二年正月の七日の『内裏に参った。右杖の座に着した。右内弁行成朝臣を介して天皇に奏上して・・・・」というページ(49ページ目)で、湯気でフニャフニャになって破れてしまった。

 

風呂で本を読むことがある。というか、私の、残り少ない時間のうち、まあそれほどネササリーではないがある種の渇きを埋め合わせてくれる書物を読むのには、湯につかっているしかない時間を振リ当てるのが最適だと感じて、風呂の入り口に、アカスリタオルとともに持ち込めるように、本を積んである。その中で一番多いのが、講談社の学術文庫シリーズなのである。

今年は、「日本の歴史」(全部で、二十四、五冊だったか)を読んでやろうと思って、年初から挑んだ。風呂でのみ、ページを開く、という読書スタイルである。

10月に至り、時代は明治に着到したが、それまでに、何度か旅行に出てその旅行先の温泉やホテルの風呂でも読み続けるようにしたところ、その巻を宿屋の湯殿に忘れてかえったり、湯にぬれてベチョベチョで読み進むのが不能になって捨てざるを得なかったりで、結局、明治までのシリーズのうち、同じものを買いなおさなければならない巻が3つにもなった。「より船尾の甜瓜早々」と「古代天皇制を考える」と「周辺から見た中世日本」である。おお、「より船尾の甜瓜早々」は、私が入れている専門辞書の、きわめて知愚的な変換で、本当は「頼朝の天下草創」である。ふーむ、それにしても「よりとも」が「より船尾」になってしまうとは、似たようなことはいつもながら、日本全国の変換回数の多さに思いをいたすと、こんな変換モジュールを供給している日本のIT業界とは、いかに国民の時間を無駄に費消させている無責任なエンジニアどもであろうか。

 

だが、まあ、とにかく、紙の業界は、本屋がコストを気にせずに使えるような、湯気や水気に破れない紙をつくれ。

 

本屋は、君たちより知的にはレベルのひくいIT業界に鼻ヅラを引っ張りまわされないで、まともに使える電子書籍をつくれ。

 

表題に、風呂で破れない紙を使った本なら格付けAAAだとそそのかしたが、まあ、なかみにも気を気をつけてください、お願いしますよ、編集業界のかたがた。

 

 

頼むから、

 

 

 

 

 

なぜ、きまぐれなのか。

ふと気づくと、10日関もブログをいじっていなかった。

カテゴリに関連した行動はやまほどあった。メモ帳やノートにはたくさんらくがきしているのに、それをまとめようという気分にならなかった。私の思考の初動には、メモ用紙とボールペンが必要で、誰にも見てもらう必要のないものとはいえブログはもうすこし整理された段階でのツールのようだ。

とりちらかった思考の断片を、キーボードに向かって言語化する作業は、ブログといえども、とりちらかった状態を何かしら体裁よくまとめようとする無意識の気持ちを働かせてしまう。

10日も書き込まなかったのは、思考をまとめる気力がなかったからだ、と思う。

 

きらいで、きらいで。逃げて逃げて、ぜったい参考書など読まないぞ、と意地を張ってきたJavaScript Ajax DOM scripting に、無条件降伏せざるをえなくなった。電子書籍っぽい動きをするサイトを、(趣味ですが)どうしても作りたくなって、あちこちのJPGスライドショウモジュールを貰いに行ったら、どいつもこいつもJavaScriptで、まったく。。。。

でもiQueryとeasy-sliderに感謝しつつ、高田順二的テキトウでつくったら、原型ができた。

 

たぶん、その動きの簡潔さは、俳句の如く(あほみたいに)単純で、不器用で、けばけばの装飾はなく、あんまりサクサクは動かず、それでいて、読者が読みたい(いかような)ペースでも快適に読めて、読んで獲得する情報量を増やすのではなく、読み進むのをいったんとめて、書かれていることを舌の上の味蕾だけではなく舌の下側でもじっくりと味わえるような、そういう電子書籍ビューワーなのである、

 

と大きく宣言したいところであるが、実際に作りこむのは、転地療養の後になる。

 

 

 

 

 

著作権

「合成音声の2次利用を禁止いたします。」

voicetext社の方針だ。ちかごろTV番組でryouを使っているのに出くわした。2次利用は料金を払えばできると推量できる。

音声合成は音素の組み合わせで行うので、音素の著作権や(音素をナレーションした声優の)個人権を利用する場合は金を払えということか。

文字フォントで、例えば明朝体をデザインしたデザイナーに、私たちprinterユーザーは、文章を書くたびに間接的にでも金を払っているのだろうか。

著作権はあるから勝手に使うな・使うなら金払えというのは、道徳的に正しいロジックなんだろうか。そもそもその著作権者がそれを作ったのは、誰かに使ってもらいたくて、あるいは、読んでもらいたくて作ったのであるから、そういう物事の本性に立ち戻って考えれば、使う側は作者の希望どおり使ってあげているのだから、金を払わない限り使ってはならないという著作権者の主張は、詐欺師の言い分、ヤクザの言い分に等しい。つかうことによって磨耗するからその損害を補填する意味で金を払えという言い分ならともかく、使っても減らない著作権は、土地の所有権や二酸化炭素の排出権と同様のうさんくささがつきまとう。

 


 

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