また夢を見たよ。
床にはいったのが、午後11時ごろ。寝室のたんすの上にかけあがったりして、ネコがうるさくしているのに気づいて、アンド、尿意で目覚めた。こういう夢だった。
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タクシーに乗り込み、行き先を告げると、きき返されたので、海岸通りではなく、尾根の道を行けと伝える。
車は山のふもとの狭い道をジグザグに走って、丘のひとつをこえたところで、池に出た。昔から良く知っている水深の深い池で、道路はその池で行き止まりになっている。
運転手はかまわず池の砂浜から菖蒲の群生をなぎ倒しながら水面をジャブジャブと走る、心配するが水が足元にはいってくる様子はない。タイヤが浮くから、と運転手が笑う。
向こう岸に着いて車が土手を駆け上がると、そこは坂の上の、狭くて車の進入が禁止された、魚のすり身をてんぷらにして売ってる屋台がある市場で、車は進入禁止の木の枠に突っ込んでとまり、運転手は降りて、右に行けばよいのか左に行けばよいのかきいてくると立ち去る。
私は店に入って何かわからない商品を手にとり、それをみているうちに、伊賀の影丸のページをめくっており、漫画を描きたいのなら回り道せずにいますぐ筆と紙を買って描き始めればいいのだと突如了解する。
そのまま場面が変わって、母の弟のおおきな洋館屋敷の前、そのおじが石畳の坂を下ってやってきて、大丈夫かと訊かれ、そばにいた母が肩にかけたショールをとって見せると、ノースリーブの背中から肩と腕にかけて、おおきなただれた、たこの吸盤のようなものが何十個もついている。驚いて目が覚めた。
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意味するところはなんだろう。自転車で走り回っていた海岸通と山道、溺れ死んだ人がいたと噂される裏山の池、魚のすり身のテンプラを威勢良く揚げている市場、横山光輝のマンガ「伊賀の影丸」、後に大成功したおじ、乳がんの疑いで乳房を全摘した母。
これらはすべて、少年期にほんとにあったことだ。ということは、今夜の夢は、長期記憶を保存している脳細胞でカルシウムイオンが発火した結果ということか。
あるいは、たまたま見た夢を、保存された私の長期記憶が解釈してみせた、ということか。
伊賀の影丸について言えば、これをまねて何十ページかのノートに描いた忍者漫画を父にうまいなと冷やかされた思い出がある。50年近く前のことだ。父が誉めたのか、ひやかしたのか、よくわからないが、たしかに、父に言われたあと、私はマンガを書くのをやめた。マンガを描いていることは隠したかったという記憶がある。描きたければ遠慮せずにすぐ描けばよいという夢の中で感じた了解は、おとなになった私の意見だ。とすれば、夢は、長期記憶が投影されたスクリーンを見ているだけの脳神経反応ではなくて、現在の価値判断や好悪感情をも発火させる脳神経反応ということか。
漫画で思い出したことがある。
少年サンデーという少年向けの漫画週刊誌に手塚治虫の「白いパイロット」という作品が連載されていた。突然連載が打ち切られたか、それとも漫画を買うのを親に禁止されたか記憶が定かではないが、とにかく、面白くて読んでいたはずのそのストーリーの結末がまったく記憶にないのだ。エンディングがハッピーだったのか悲劇だったのかの印象さえない。私が覚えている最後は、南海の火山島の湖に、主人公の少年革命家のパイロットたちが乗っとった大型の空飛ぶジェット戦艦が不時着する場面だ。これからどうなるのだろう、という強烈なインパクトを与えられながら、その後、一度も、次に物語がどうなったかを知る機会がなかった。
このことが何十年も気になっていたが、半年ほど前、ジュンク堂の手塚全集コーナーで見つけた。ビニールの封をまとって陳列された文庫サイズのそのマンガをためらわず買って、読んだ。改めて読んでみると、クローン人間と、そのクローンを作った人間との、複雑でアンビバレンツな感情を背景にした、国際政治と人間主義的反逆者の戦いの物語。というようなかんじで、けっこう、読者には難しい、作者自身さえ少々消化不良になっていたのではないかと思わせる内容だった。解説によると、連載初期は人気が高かったが、人気が急落して、連載を早めに終わらせることになったようだ。
bbA。ではあるが、本棚からは捨てずに置いておこう。